2020年2月12日 (水)

夢の終着地点は当たり前のことだった

最近、命が輝いていないなと、すさんでしまいそうだなと、やるせないなと、色褪せた日々を過ごしている。

価値とは何かと考えていて、行き着いた結論は、生きる抑揚のような、感動のような、感謝のような、そういった漠然としたものを実感として与えたり与えられたりするものなのではないかと思った。

では、そういったものは何かといえば、極端には「夢」なのだと思う。「夢」を与えたり与えられたりする関係こそ、人間の究極的に目指すところだ。ときにそれは、神話であったり、あの世であったり、救済であったり、革命であったりする。人間は理解の範疇を超えてはいるものに対しても「あ、なんとなく分かるかも」という想像上の理解を得ることができる。それが夢の根源であり、そういったものを追い求める性があるのではないだろうか。

つまり、不可解なものと理解できるものが混在して初めて人間は「夢」を見ることができるのだ。月並みだが、夢には希望と不安が同居している、という言葉回しはまさしくなのだ。

しかし、現代はどうだろうか。化学や物理学が万人が共通して理解できる記号をもってして雄弁に世界各地で説法を行っている。科学は究極の現実主義である。事実が例え人間の知覚を超えたものであったとしても、確かな現象として観測できればそれは現実として扱われる。もはや、科学を殺すのは科学しかないといった状況であり、そこに人間の想像が介入する余地はもはや無い。夢の構成要素である「不可解」はもはや風前の灯だ。「不可解」なことはつまり「知らない」だけなのだ。「答え」は算出されて然るべきだし、おそらく今後、人間の考えや行動も科学のテーブルのうえで正しく答えが導き出されることになるだろう。

とまあ、ここまでは非常にマクロな視点での話ではあるが、もう少しミクロな視点に立ってみた場合どうだろうか。例えば、恋愛というのは一個人間の話であり、仮に恋愛感情の発生要因とその必然的構成要素が導き出されたとしても、行動心理学的に二人が出会う可能性を正確に算出したとしても、我々はほんの些細な出来事、コンマ1秒(例えば一瞬視線を逸したとか逸らさなかったとか)で対人関係が激変してしまうことを知っている。果たして、そのコンマ1秒まで科学に従順でいられるだろうか。そこまで自分という人間をコントロールできるだろうか。答えは、できる訳がないのだ。

そこで、こう考えることにした。すさんで、やるせなくて、色褪せた日々を送っていたのでこう考えることにした。目の前の人間にこそ夢を見ようと。この相手と今後どうなっていきたいのか真剣に考えようと。それが例え本当に忘れてしまうくらい些細な出会いだったとしても。おそらく、凡才にも至らない自分が夢を見るテリトリーは人間関係にしか残っていないと思う。科学の呪縛を逃れ、不可解の中で生きている抑揚を見つけてみようと思う。明日からをほんの少しだけ楽しみにしてみようと思う。

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2020年1月28日 (火)

これでも人からの影響をとても受けやすい方なんだ

先日、スーパーで買い物をしているときにとても幸せそうな人を見かけた。女性の方で40代くらいだろうか、痩せ型でメガネを掛けていて、黒い髪を後で結っている方だった。

その方は、爆笑しながらキャベツを選んでいたとか、奇声を上げながらお刺身を買い物カゴに入れ込んでいたとか、そういうおめでたい奴的な感じではなく、ただ普通に買い物をしているだけなのに幸せオーラを漂わせていた。

思わず聞きそうになった。「何かいいことでもあったんですか?」と。もちろん聞ける訳ないけど、インタビュアーなら確実にインタビューしてた。

そういう方を見るとなんとなくこちらも幸せな気持ちになってくるから不思議だ。人は他人のオーラに染まりやすい。

そういえば、街全体が特殊なオーラに包まれた時があった事を思い出した。平成二十三年三月の東日本大震災の時だ。私の街はもともと災害が少なかった為、あの震災によってほとんどの住民が初めての被災者になった。

何とも言えない街の空気を今でも覚えている。待ち行く人々の顔付きが、目の輝きが、仕草や態度、話し方までも普段と全く違うのだ。私がそんな住民たちのオーラにあっさり染まったのは言うまでもない。「変化の渦中にある」という妙な興奮が四六時中あった。

幸いにも行政や自衛隊の支援は行き届いており、暴動などは起きなかったけど、もし暴動が起こっていたら、もしかしたら暴徒の側に回っていたかも知れない。そんな、危なっかしい興奮状態を覚えたのは後にも先にもあの時だけだ。

話は戻ってスーパーで見かけた幸せそうな女性。本人は自覚がないと思うけど、その幸せオーラは色んな方に幸せのおすそ分けをしていたと思う。

人間、気を抜くとすぐに苛々や悲しみや辛さばかりを考えてしまう。でも、一人一人がほんの少しでも、ほんのささやかでも、幸せなオーラを出せるよう気にしてれば、街全体が変わるのかな、とか思った。

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2019年12月21日 (土)

らしさ

昨夜は友人と飲みにいった。再会は一年半年ぶりくらいか。仰々しく懐かしがらずスムーズに会話に入っていくのが大人の嗜みだ。

それでも「俺ってこの人の前でどんな人間だったっけかなー」と妙な不安を覚えていたのも本当だ。取り繕うという意味でなく、再会を果たす間に変わったと思える自分の領域に自信がなかったのだ。

良い悪いではなく、果たして自分は自分らしくいられているのだろうかという不安。相手から「らしくないな」と思われないかという不安がうっすらとあった。

人間、誰にだって現状の不満や将来の不安があるもんだ。それでも背筋を伸ばさせるのは、使命感や誇りといったものだろう。逆にいえばいくら金があって環境がよくて暖かな人間に囲まれていても、使命感や誇りのない人は不幸だと思うし、薄いなと、思う。

頭で考えた損得勘定で生きるのではなく、自分の心を響かせるような生き方をしている人間は、味気があって面白い。果たして自分はそういう人間になれているのか、おそらくなれていないから昨夜は「らしくないな」と思われそうで不安だったのだ。

昨夜、言葉が溢れるように出てくる感覚を覚えた瞬間があった。「ああ、今、心から言葉が出てきているな」と思った。こういう会話は面白いものだ。相手と心を照らし合わせているうちに、自分にとって大事なものが映し出される。

何をするときも、誰と話すときも心で生きていれば、必然的に自分のことが見えてくる。自分の求めている生き方というものがぼんやりと分かってくる。そういったものを追い駆けるのが、「らしさ」なんじゃないかな。

昨夜はいい夜だった。

僅かながら得た手掛かりではあるけれども、自分らしく生きてみようと思った。

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2019年12月18日 (水)

手記

毎年、この季節になると夜空を見上げては思い出す。あれは高校生の頃だ。ひとりの友人と高校生活の多くを過ごした。一緒に歌をうたって、一緒に恋の話をして、一緒にバカげた(確信のような)夢を見ていた。

彼はとなり街に住んでいたので、遊んだ帰りは国道6号線をずっとひとり自転車で走った。星空を綺麗に見るコツは目を闇に慣らすことだ。小一時間もかけて自宅に着いた時に見上げた星空は、それはそれは綺麗に見えた。それだけで、嘘みたいに今日は良い一日で終われた。

高校を卒業してからは疎遠になった。特に理由はなかったと思う。会うように生きてるなら会うし、会わないように生きてるなら会う意味もないよな、そんな風に思っていた。連絡をとったのも数年前に電話をもらったのみだ。ひどく落ち込んでいた時期だった。

「今なにしてんの?」

「何もしてないよ」

「元気?」

「元気だよ」

「なら、それでいいんだ」

おおよそ、そんな内容の会話だったと思う。今でも思い出すよ。誰かひとりでも存在を肯定してくれる人がいるなら、人はなんとか生きられるものなんだね。

久しぶりに会いたいなと思った。

それは、あの頃に戻ってはしゃぎ倒すとか、思い出話に浸るとか、近況を語り合って悦に浸るとか、そういうんじゃなくて、またふたりで遊びたいのだ。

我々の遊びは、いつだって今日が始まりだった。いつだって枕詞は「次は」だった。いつだって今日が明日に繋がるように、そんな風に遊んできた。

適当なところで乾杯して、お互い歳とったよな、苦労もあったよな、それでも頑張ってきたよな、とかそういうのは、いらない。

次はなにする、次はどうする、次はどうやって生きる?

なあ、久しぶりに会おう。この世界に何を仕掛けてやろうか、何を残してやろうか企もう。そして、叩き付けてやろう。一生を安易に賭けてやろう。

なあ、としや。

また一緒にで遊ぼうぜ。

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2019年11月23日 (土)

コーヒーを飲みまくって思った

カフェインは覚醒作用をもたらすが、摂り過ぎると夜に寝付けなくなってしまう。翌日、寝不足を紛らすためにまたカフェインを過剰に摂取し、その夜も寝付きが悪くなる。というのがカフェインの負のスパイラルだ。

私も以前経験したことがあり、今は極力カフェインを摂取しないよう心掛けている。

しかし、最近は疲労が溜まっているのか、無気力感が拭えず、つまらない日々が続いていた。そこでコーヒーを終日飲み続け、カフェイン効果で改善を試みることにしたのだ。

効果はてきめんであった。朝からコーヒーを飲み続け、お昼頃には頭のモヤが晴れ、疲労感がほぼ無くなっていた。体も動く、頭も思考を止めようとしない、そんな状態のまま一日を過ごすことができ「これは人生のクオリティが上がるな」と、そんな予感がした。

ただ闇雲にカフェインを摂取すればいい訳でないと気付いたのは、数日後であった。正体不明の罪悪感に苛まれたのだ。特に思い当たる出来事はないが「悪いことをした」という感覚だけがある。しばらくゆっくりしているうちにその感覚は消えたが、理由のないネガティブな感情には覚えがある。二日酔いのときだ。

二日酔いのとき、私は「死にたい」と思うことが多い。これは思考でなく感覚だ。胸のあたりでどす黒いモヤが渦巻いていて、その感覚をあえて言語化するなら「死にたい」なのだ。

アルコールの場合は「死にたい」だがカフェインの場合は「悪いことをした」という感覚がもたらされるのか、そんなことを思った。

以前、私がカフェインをよく摂取していた頃、私は繊細な人間であった。他人に嫌な思いをさせたくないという気持ちがとても強く、自分と接した他人の感情に対し異常なほどナイーブになっていたのだ。

他人とのコミュニケーションの中でひとつでも不快感を与えるような言動をしてしまったものなら、その場面を繰り返し思い返しては、ああするべきだったかこうするべきだったかと悩み続けることが多くあった。

このようなしみったれた慣習も「悪いことをした」と思わせるカフェインの影響があったのかも知れない。

何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」なのである。カフェインの覚醒作用は有効で日々のパフォーマンスを上げることはできるが、ほどほどでなくては返って逆効果になってしまう。

私はカフェインやアルコールがなければ社会や世間は今ほど活性化していないと思っている。カフェインが仕事の効率を上げ、アルコールがコミュニケーションを潤滑にしてきたお陰で今の社会があると信じている。

だからこそ、カフェインやアルコールとうまく付き合っていかなくてはならない。カフェインやアルコールを過剰に摂取して「悪いことをした」とか「死にたい」とか考える時間ははっきり言って無駄だ。

何故なら薬物由来の感情は実体験を伴っていないため、いくら思考を重ねた結果だとしても、その判断や行動は現実世界においてはあらぬ方向になってしまうからだ。そのことを自覚して、よい距離感でカフェインを利用しないとな、と思った。

ちなみに、コーヒーは曇り空の日が美味しい。

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2019年11月13日 (水)

不幸の味

幸せになれと言われたら、そうなるのは非常に難しいけど、不幸になれと言われれば簡単になれる気がする。

これが、なんか変だなと思う。

幸せも不幸も違うベクトルではあるものの、絶対値として考えれば同様の結果を出すためには同様の力量でこと足りるはずだからだ。

ともすれば、不幸になることの方が簡単なのは、人間の基準点が不幸の側にかなり寄っているか、幸せの方向に抵抗がかかっているか、はたまたその両方なのかという話になる。

結論めいたことを言えば、人間のベースは不幸なのだ。いや、もしかしたら現存する生物の殆どがそうなのかも知れない。

例えば、カンブリア紀に「生きてるだけで幸せだなんて本当に幸せなことだなぁ」なんて呑気に過ごしていた生物はアノマロカリスに駆逐されてしまったことであろう。氷河期なら餌も探しに行かずその場で飢え死んだかも知れない。

ともかく、食物連鎖や自然淘汰の成れの果てに生きる我々現存生物は、危機管理能力が非常に高く、損得勘定が極めて得意であり、それ故に生命体としてのベースは不幸なのだと思う。

では、どうすれば幸せに生きることができるのか、と言えば、まずはこの事実を受け入れなくてはいけない。

そこから先は知らない。人それぞれだと思うし。でも、まずは「私は生まれながら幸せになり難い特性を遺伝子レベルで持っている」と自認しなくてはいけないと思う。出発点が違っていたら、辿り着けるところにも辿り着けないと思うし。

 

それに、

 

大丈夫、君だけじゃないから。
大丈夫、私だけじゃないし。


と思えば少し気持ちが落ち着く、そんな特性も人間にはあるのだ。

 

 

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2019年9月 1日 (日)

なりきりのススメ

先日、ラジオを聞いてたら「なりきりチャット」の話題になった。


俺はやったことないけど、アナウンサーは「昔やりました!」と同調モード。


全く共感できない。


北関東自動車道の田と山の広がる景色を淡々と進んでいる中、全く共感できないその話題はラジオの向こう側でそれなりに盛り上がっていた。確かに中高生ってそういうの好きかもなぁ。



はてと思ったのは、それから数日が過ぎてからだ。


「なりきりチャット」はやってないけど、「なりきり」はやっていたかも知れないと思い出した。


確かに、孫悟空だとか緋村剣心だとか往年のジャンプ作品の主人公になりきって友達と遊んでいた頃もあったなー。


忘れていた。 


むしろ、よくよく考えると、人生の大半を「なりきり」で過ごしていたかも知れない。


時にそれは漫画の主人公だったり、時にそれは憧れのミュージシャンだったり、時にそれは尊敬する人物であった。


とにかく、その時々、熱やら憧れやら理想やらがあって、それに応じるように自分は何かに「なりきって」いた。



なりきっていたことを自覚していなかったのは仕方ない。なんせ、なりきることで人生の大半を過ごしてしまい、なりきることが当たり前だったからだ。


「なりきり」は子どもの頃のごっこ遊びから始まって、大人になっても考えや言動、ライフスタイルなんかは常に誰かの幻影を重ねていたような気がする。


もっと言えば、自分が個性と思っていたのは、「なりきりの選択」だったのかも知れない。


ずっと自分だと思っていたやつは、誰かの投影に過ぎなかったとも言える。でも、こう言い切ってしまうと、ちょっと虚しい。



しかし、「なりきり」は楽しいことも思い出した。自分さえ納得できれば、なりたい自分になれるのだ。


世界一の剣闘士にも、天才作曲家にも、超大富豪にもなれる。


もちろん、世間とのギャップは生まれるが、その時は、(平和を愛し敢えて戦わない)世界一の剣闘士、(現代人にはとても価値が分からない)天才作曲家、(金を使うことに飽きた)超大富豪、とかに設定を変えればいい。


きっと楽しいと思う。むしろ書いてて楽しくなってきた。


今となれば「なりきりチャット」の話題でアナウンサーがはしゃいでいたのも頷ける。自分の中に新しい自分が生まれてくるようでワクワクする。


さらにいいなと思ったのは、その時々の状況に応じて「なりきりキャラ」を変更するという手法。


例えば、ダイエット中なら「世界一を目指して減量中のプロボクサー」になるとか。漠然としたところに明確なイメージをぶち込むことでやり甲斐は格段に上がるはず。



先にも書いたが、なりきるためには自分を納得させなくてはならない。


子どもの頃なら「俺は世界一の剣闘士だ!」と無根拠に信じられたとしても、それなりの経験と知識のある大人の自分を納得させることは容易ではない。


いくら「俺は世界一の剣闘士!」と叫んだとて、現実には何一つ斬った試しがないし、剣闘士のことを何一つ知らない。これでは自分が納得できるはずないのだ。


私は「剣闘士」を知らなければ、ググったことすらない。なんとなく「斬って闘う人」というイメージだけがある。正直、このイメージも合ってるかどうか分からない。


もし、ある剣闘士の人生を描いた物語があったとしよう。


そこには彼が剣闘士を志した動機やそこに至るまでの苦悩、剣闘士としての葛藤を通じ闘うということの本当の意味に気付いた瞬間などが書かれている。


私は読み進めるうちに剣闘士の人生と自身の人生を重ね始めた。「闘技場ではなくても、俺にだって闘う場所がある」などと妙な熱を帯びる。


そして、ついに宿敵を倒した剣闘士は言う。「誰かに勝ったのではない。自分に勝ったのだ。」


見開いた本の文字が滲んでいる。知らぬうちに涙を流していたようだ。考えるまでもなく、私はこう思っていた。「この剣闘士のように生きたい」と。



以上はもちろん想像であるが、こんな体験をして我々大人は初めて「なりきり」ができるようになる。


逆に言えば、対象の情報とそれに伴った感動体験がなければ、なりきることは難しい。


だからこそ、インプットを惜しまない人間は生き生きして見えるのかも知れない。きっと彼らは意識にしろ無意識にしろ、場面場面に応じた適切な「なりきり」を行っているのだ。


それらが、人間としての奥深さを醸し出させるようにも思える。



「なりきり」を自在に扱えるようになったら、人生がもっと楽しくなるような気がする。素の自分だけで生きていくのは、少しばかり心許ない。


そのためにはインプットを惜しまず、感動多く過ごしていく必要がある。なかなかそう簡単には行かないんだけどね。意識だけはしてみるよ。


よかったら皆さんも一緒にやってみませんか?



さて、今日は何をしようかー。



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2018年3月 3日 (土)

ランニングしてきた

ランニングをしてきた。

さっぱりした。

心の錆が落ちる。淀みがなくなる。そして、落ち着く。
自分が自分でいることを自然とすんなり受け入れられるような、そんな平穏を得られる。

これには、ランニングによってβエンドルフィンという脳内物質が分泌されるかららしいのだけれど、そんなことはどうでもいい。
とにかく何かしらの行為によって、心の平常を保てるということは、救いだ。

下手に他人に励まされたり、向上心を持てと書いてある本を読んだり、粗暴なことをして憂さ晴らししても、心の奥の淀みはなかなか消えてくれない。

運動で得られる平穏は、動物的な物なのだと思う。つまり、自身の存在とか生命とかそういうところに関わってくる平穏だ。
動物としての機能を駆使したことで得られる充足感なのかも知れない。

なぜ動物的なのか。それは運動で得られた平穏が明日には見事に無くなっているからだ。もしかしたら数時間後かも知れない。

いくら満腹になってもいずれ腹が減るように、この平穏はいずれなくなってしまう。

さて、私は小学校、中学校ともに運動部に所属しており、毎日のように部活動に励んでいたが、今ここで書いたような平穏を実感したことはなかった。

高校生になって運動部からは離れたものの自転車通学であったし、体育の授業も受けていたのでほぼ毎日何かしらの運動的な活動はしていた。
しかし、やはり平穏は感じられなかったし、「今日も自転車で通学したから気持ちがさっぱりしたー!」なんて事を言った例がない。

もっと言えば、社会人になってからも自転車通勤の頃があったが同様である。


何故なのか。


思うに、それらの運動活動が単に社会的なタスクをこなす為の行いであったからではないか。

部活動、体育の授業、通学、通勤それら全ては、社会的な目的を達成する為の運動行為であり、意識の背景には常に仕方ないという思いがあった。

「こなさなくてはならないことをするだけ」

つまり、私にとっては、それら全ては、他動的な運動活動だったのだ。
他動的な運動活動とはつまり、奴隷の労働に極めて近い行為とも言える。

ここまで読んで、あまり共感を感じない方はおそらく、それらの運動活動において能動的な意義を持ち取り組んで来られた方と推測する。

例えば、それらの運動活動において「理想のプレイに少しでも近づく!」とか「俺は体育では絶対に良い成績を取る!」とか「電車ではなくあえて自転車で行く!」とかいったような自分なりの意義を私が少しでも持っていれば、先に書いたような平穏を得られたのかも知れない。

しかし、それが全くなかったのだ。いや、全くでは語弊があるかも知れない。考えはしていたけれど、心の芯からそのような事を思えなかった。

今にしてみれば、ちょっともったいないことをしたなと思う。

今、自分がしている運動は完全に自身のためのものである。

それもほぼ一人で行っているので、誰かに強制されることもなく、無理に能力を上げる必要もなく、人間関係に気を使うこともない。

更に、健康に気を使ってとか、体力をつけて日々のパフォーマンスを上げてとか、そういう目的もない。

気が向いたときに出掛ける散歩と同じだ。ただ、走ってるだけ。

実はこれってすごく贅沢なんじゃないかと思ってる。
だって、時間と体力に余裕がなければ絶対にできないことだから。

スクール(学校)の語源はギリシア語のスコレー(余暇)にあると聞いたことがある。
古代ギリシア人にとって、学ぶということはきっと娯楽や余興だったんだ。
とても役に立ちそうもない議論を延々と重ねていくうちにヨーロッパ思想の礎が出来上がっていったのかな、なんて思い馳せるとニヤリとしてしまう。

もちろんそんな大層なことと比べる訳ではないけれど、何のしがらみもなく、目的もなく、狙いもなく、純粋にやりたいことができる余暇って、いつの時代も素晴らしいなぁと思う。

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2017年6月 5日 (月)

第三者視点にあたふたする

ツイキャスで弾き語りを放送してみた。

普段使ってないアカウントでの試験放送であったので、
観てくれた人はゼロであったけど(やっぱり少し悲しい)、

「どこかの誰かと繋がっているかも」というのは、
部屋でひとりで歌っているときとは意識的にかなり違う。

緊張感というとまた違うけど、
予断できないし、

何で自分はこの歌を歌っているのか?
という自問にアンサーを出し続けなくてはならない。

面白いな、と思った。

音楽は自由なのだけど、他者の視点があると自由の意味合いが変わってくる。

相手がいて初めて言葉が会話になるように、
話し手は自らの言葉が相手に与えるであろう影響を無視できない。

自由には自由なのだけど、その自由は
「相手がいる事によって生じる制約をどこに置くか」という自由に変わってくる。

第三者の視点があった瞬間(もしくは、それを意識した瞬間)に、
制約やルールといった垣根にあっさりと囚われてしまうのだ。

「その垣根を壊す」と言っても、それは垣根の存在を認めてしまっている訳で、
「垣根を壊す」という行為そのものが、垣根の中から生まれた行為の一つなのだから、
言えば言うほど、第三者の視点に自分が囚われてしまっていることを名言して周っているようなものだ。

となれば、音楽における真の自由とは何か。

心の深淵に触れ、共鳴したものを再現することか、

既存の理論や方法論を熟知し、それから逃げる術を模索することか、

瞬間の即興こそ全てであるとし、それを崇高に扱うことか。

どれも違うような気がする。

何だろう何だろうと考えても、
なかなか答えは出ないもので、

それならばその刹那
生きていることの軌跡を
音を鳴らして示したいのだけれど。。。

やってみるよ。

死ぬ瞬間までやったらすごいよね。

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2017年5月13日 (土)

飲酒時における考え事について①

毎日だらだらとお酒を飲んでいる。

お酒を飲んでいるときはなるべく楽しい気持ちになりたいので、
楽しいことを考えるようにしている。

しかしながら、この考え事というのが、なかなか選定が難しく、うまく酒に浸れないこともしばしばである。

この記事では、普段どのような事を考えながら飲酒しているのかということをポイントに、駄文をつらねたいと思う。

【宇宙について】

NASAが発表していないだけで、未知や超常との出会いはすぐそこなのかも知れない。
はたまた突発的な異常に巻き込まれ、歴史の終止符はもう次の瞬間かも知れない。

なんて考えながら酒を飲む。

しかし、最初のうちはわくわくするけど、自分が宇宙という未知の空間で生きているんだなと、次第に不安になってくる。

いくら地に足つけたって、実はその地が宙に浮かんでるんだぜ?
怖いよね。

【命について】

まずは、この星で発生した生命という現象の果てに自分がいるんだなと考え、感慨深く酒を飲む。

生命が発生して以来、連綿と繋がれてきたバトンを今自分が手にしている。更にここは歴史の最先端と来たもんだ。

この上ない特別感に、酒も美味い。

しかし、命について考えていると、時の流れとともに人間は自然から離れ、ひとりぼっちになってしまったんだなとか思って、虚しくなる。

養豚所の豚や、養蚕所の蚕ももしかしたら、こんな虚しさを抱えて生きているのかも知れない。

「自然へと帰れない」

豚が牙を失くしたように、蚕が羽を失くしたように、人間もまた何か大切なものを無くしてしまったのではないか。

先人達に聞こえていたであろう自然の声はもう聞こえない。

人間は悲しいくらいにひとりぼっちだ。

このアルコールが工業品でなくて本当によかったよと、夜な夜な酵母菌に語りかけてみる。

酵母菌からの返事は無い。

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