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2020年2月12日 (水)

夢の終着地点は当たり前のことだった

最近、命が輝いていないなと、すさんでしまいそうだなと、やるせないなと、色褪せた日々を過ごしている。

価値とは何かと考えていて、行き着いた結論は、生きる抑揚のような、感動のような、感謝のような、そういった漠然としたものを実感として与えたり与えられたりするものなのではないかと思った。

では、そういったものは何かといえば、極端には「夢」なのだと思う。「夢」を与えたり与えられたりする関係こそ、人間の究極的に目指すところだ。ときにそれは、神話であったり、あの世であったり、救済であったり、革命であったりする。人間は理解の範疇を超えてはいるものに対しても「あ、なんとなく分かるかも」という想像上の理解を得ることができる。それが夢の根源であり、そういったものを追い求める性があるのではないだろうか。

つまり、不可解なものと理解できるものが混在して初めて人間は「夢」を見ることができるのだ。月並みだが、夢には希望と不安が同居している、という言葉回しはまさしくなのだ。

しかし、現代はどうだろうか。化学や物理学が万人が共通して理解できる記号をもってして雄弁に世界各地で説法を行っている。科学は究極の現実主義である。事実が例え人間の知覚を超えたものであったとしても、確かな現象として観測できればそれは現実として扱われる。もはや、科学を殺すのは科学しかないといった状況であり、そこに人間の想像が介入する余地はもはや無い。夢の構成要素である「不可解」はもはや風前の灯だ。「不可解」なことはつまり「知らない」だけなのだ。「答え」は算出されて然るべきだし、おそらく今後、人間の考えや行動も科学のテーブルのうえで正しく答えが導き出されることになるだろう。

とまあ、ここまでは非常にマクロな視点での話ではあるが、もう少しミクロな視点に立ってみた場合どうだろうか。例えば、恋愛というのは一個人間の話であり、仮に恋愛感情の発生要因とその必然的構成要素が導き出されたとしても、行動心理学的に二人が出会う可能性を正確に算出したとしても、我々はほんの些細な出来事、コンマ1秒(例えば一瞬視線を逸したとか逸らさなかったとか)で対人関係が激変してしまうことを知っている。果たして、そのコンマ1秒まで科学に従順でいられるだろうか。そこまで自分という人間をコントロールできるだろうか。答えは、できる訳がないのだ。

そこで、こう考えることにした。すさんで、やるせなくて、色褪せた日々を送っていたのでこう考えることにした。目の前の人間にこそ夢を見ようと。この相手と今後どうなっていきたいのか真剣に考えようと。それが例え本当に忘れてしまうくらい些細な出会いだったとしても。おそらく、凡才にも至らない自分が夢を見るテリトリーは人間関係にしか残っていないと思う。科学の呪縛を逃れ、不可解の中で生きている抑揚を見つけてみようと思う。明日からをほんの少しだけ楽しみにしてみようと思う。

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