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2019年9月11日 (水)

「つきよの晩にあとひとつ」という楽曲

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「つきよの晩にあとひとつ」
(クリックでMP3を再生)

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花開かせてみても 何もなくて
思い出の中じゃ それを隠すのでしょう  

小さな約束を 果たす夜は
穏やかな風が 僕を包みました

そばに居るから 嘘じゃないから
手を握り締め 歩いて行くから
ひとりじゃないよ 寂しくないよ
ほらごらん 夢のように綺麗な

つきよの晩に あとひとつ
あとひとつと 意味を重ねて
見てた未来に もう少し
もう少しで 手が届きそうだ

一度だけでも ここで話そう
他の誰にも 聞こえないように
そばに居るから 目を逸らすなよ
思い出なんかに させないからな

寂しかったろう 苦しくて
切なくて 息もできずにいた

つきよの晩に あとひとつ
あとひとつ 吐息を重ねて
見てた未来に もう少し
もう少しで 手が届きそうだ
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この楽曲はUTAUの雪歌ユフにリードボーカルを任せています。原型は今から10数年前、私が10代後半で学生をやっていた頃に出来上がりました。

当時はただただ一生懸命作っていたので、客観的にどういう曲なのか言い得ることはできませんでしが、時を経た今だからこそ、この楽曲は「少年と少女の恋愛の歌だ」と言うことができます。なんだか身も蓋もありませんが、そういう曲なのです。

少年の世界はいつも大人の都合に左右されます。生きている場所の殆どが大人やら社会から与えられたものだからです。自分の意思より大人の気分の方が自身に与える影響が格段に大きい世界です。

対して、恋愛は誰かの思念に左右されない世界です。互いが思い合っていれば成り立つ独自の世界です。だからこそ少年と少女は恋愛に世界の全てを見ようとします。恋愛に救いを求めていると言い換えることもできます。

この楽曲はそういう歌です。恋愛に救いを求める少年と少女の歌です。私は幸にも(不幸にも)大人になりましたので、おそらくもうこういう曲は作れないことでしょう。

だからこそ、この一生でこの曲を作ることができて本当によかったと思います。

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2019年9月 8日 (日)

「日々という牢獄」という楽曲を投稿しました

「日々という牢獄」
(クリックでMP3を再生)

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青い空飛び回る 名も無き鳥は
僕達の居る場所を 教えてくれる

普遍的な毎日 変わらぬ今を
抜け出せる未来なら あると思ってた

光の中で光を探し 目が眩み何も見えずに
温もりさえ当たり前のものとなるのさ

晴れ渡る空に 何を見てる?
思い描けずに 今日もひとりの振りして
逃げ出した場所で 何かが霞む
手を伸ばし触れた 絶望の影が笑っている

何を信じても 救われぬなら
この歌と共に 今夜恨み晴らしましょう
ありふれた日々が 返らぬのなら
あの頃の様に 夢を見ながら踊りましょう

青い空飛び回る 鳥達の様に
何処までも行けたらな 幸せなのに

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この度、「日々という牢獄」という楽曲を発表させて頂きます。

 

この楽曲は今からおよそ15年前に、高校生だった私が加入していたバンドで演奏していた楽曲です。曲調や雰囲気なども気に入ってますし、何より歌詞にあるような閉塞感は15年経った今もありますので、自分という人間を表現するために必要な楽曲と判断し、再作成しました。

アレンジに関しては、当時のバンドメンバーが演奏していたものをうろ覚えながら再現したものとなっています。当時のメンバーとは今も連絡が取れるので、今度、聴いてもらいたいと思います。ただ、恥ずかしさもあるので勇気が出た時にでも。

さて、この楽曲をどういう気持ちで作ったのか振り返るため、遠い記憶を辿るとおおよそ二つの事柄を思い出しました。

一つは「問題はどこにいても必ず降り掛かってくる」ということ。もう一つは「生きるためには金を稼ぐしかない」ということ。

この二つの事柄については15年の年月を経てある程度の折り合いを付けられるようになりましたが、精神の奥底ではいまだに私の息を詰まらせる人生のジレンマに変わりありません。

生きる上での不満や不条理を嘆き、喚き散らすだけで、思慮せず行動もせずでは建設的な人間の態度とは言えません。それはただの堕落です。

しかし、敢えて言いたい。心の奥底の本音をぶつけたい。

 

世界、ふざけんな。

 

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2019年9月 1日 (日)

なりきりのススメ

先日、ラジオを聞いてたら「なりきりチャット」の話題になった。


俺はやったことないけど、アナウンサーは「昔やりました!」と同調モード。


全く共感できない。


北関東自動車道の田と山の広がる景色を淡々と進んでいる中、全く共感できないその話題はラジオの向こう側でそれなりに盛り上がっていた。確かに中高生ってそういうの好きかもなぁ。



はてと思ったのは、それから数日が過ぎてからだ。


「なりきりチャット」はやってないけど、「なりきり」はやっていたかも知れないと思い出した。


確かに、孫悟空だとか緋村剣心だとか往年のジャンプ作品の主人公になりきって友達と遊んでいた頃もあったなー。


忘れていた。 


むしろ、よくよく考えると、人生の大半を「なりきり」で過ごしていたかも知れない。


時にそれは漫画の主人公だったり、時にそれは憧れのミュージシャンだったり、時にそれは尊敬する人物であった。


とにかく、その時々、熱やら憧れやら理想やらがあって、それに応じるように自分は何かに「なりきって」いた。



なりきっていたことを自覚していなかったのは仕方ない。なんせ、なりきることで人生の大半を過ごしてしまい、なりきることが当たり前だったからだ。


「なりきり」は子どもの頃のごっこ遊びから始まって、大人になっても考えや言動、ライフスタイルなんかは常に誰かの幻影を重ねていたような気がする。


もっと言えば、自分が個性と思っていたのは、「なりきりの選択」だったのかも知れない。


ずっと自分だと思っていたやつは、誰かの投影に過ぎなかったとも言える。でも、こう言い切ってしまうと、ちょっと虚しい。



しかし、「なりきり」は楽しいことも思い出した。自分さえ納得できれば、なりたい自分になれるのだ。


世界一の剣闘士にも、天才作曲家にも、超大富豪にもなれる。


もちろん、世間とのギャップは生まれるが、その時は、(平和を愛し敢えて戦わない)世界一の剣闘士、(現代人にはとても価値が分からない)天才作曲家、(金を使うことに飽きた)超大富豪、とかに設定を変えればいい。


きっと楽しいと思う。むしろ書いてて楽しくなってきた。


今となれば「なりきりチャット」の話題でアナウンサーがはしゃいでいたのも頷ける。自分の中に新しい自分が生まれてくるようでワクワクする。


さらにいいなと思ったのは、その時々の状況に応じて「なりきりキャラ」を変更するという手法。


例えば、ダイエット中なら「世界一を目指して減量中のプロボクサー」になるとか。漠然としたところに明確なイメージをぶち込むことでやり甲斐は格段に上がるはず。



先にも書いたが、なりきるためには自分を納得させなくてはならない。


子どもの頃なら「俺は世界一の剣闘士だ!」と無根拠に信じられたとしても、それなりの経験と知識のある大人の自分を納得させることは容易ではない。


いくら「俺は世界一の剣闘士!」と叫んだとて、現実には何一つ斬った試しがないし、剣闘士のことを何一つ知らない。これでは自分が納得できるはずないのだ。


私は「剣闘士」を知らなければ、ググったことすらない。なんとなく「斬って闘う人」というイメージだけがある。正直、このイメージも合ってるかどうか分からない。


もし、ある剣闘士の人生を描いた物語があったとしよう。


そこには彼が剣闘士を志した動機やそこに至るまでの苦悩、剣闘士としての葛藤を通じ闘うということの本当の意味に気付いた瞬間などが書かれている。


私は読み進めるうちに剣闘士の人生と自身の人生を重ね始めた。「闘技場ではなくても、俺にだって闘う場所がある」などと妙な熱を帯びる。


そして、ついに宿敵を倒した剣闘士は言う。「誰かに勝ったのではない。自分に勝ったのだ。」


見開いた本の文字が滲んでいる。知らぬうちに涙を流していたようだ。考えるまでもなく、私はこう思っていた。「この剣闘士のように生きたい」と。



以上はもちろん想像であるが、こんな体験をして我々大人は初めて「なりきり」ができるようになる。


逆に言えば、対象の情報とそれに伴った感動体験がなければ、なりきることは難しい。


だからこそ、インプットを惜しまない人間は生き生きして見えるのかも知れない。きっと彼らは意識にしろ無意識にしろ、場面場面に応じた適切な「なりきり」を行っているのだ。


それらが、人間としての奥深さを醸し出させるようにも思える。



「なりきり」を自在に扱えるようになったら、人生がもっと楽しくなるような気がする。素の自分だけで生きていくのは、少しばかり心許ない。


そのためにはインプットを惜しまず、感動多く過ごしていく必要がある。なかなかそう簡単には行かないんだけどね。意識だけはしてみるよ。


よかったら皆さんも一緒にやってみませんか?



さて、今日は何をしようかー。



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