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2017年6月 5日 (月)

第三者視点にあたふたする

ツイキャスで弾き語りを放送してみた。

普段使ってないアカウントでの試験放送であったので、
観てくれた人はゼロであったけど(やっぱり少し悲しい)、

「どこかの誰かと繋がっているかも」というのは、
部屋でひとりで歌っているときとは意識的にかなり違う。

緊張感というとまた違うけど、
予断できないし、

何で自分はこの歌を歌っているのか?
という自問にアンサーを出し続けなくてはならない。

面白いな、と思った。

音楽は自由なのだけど、他者の視点があると自由の意味合いが変わってくる。

相手がいて初めて言葉が会話になるように、
話し手は自らの言葉が相手に与えるであろう影響を無視できない。

自由には自由なのだけど、その自由は
「相手がいる事によって生じる制約をどこに置くか」という自由に変わってくる。

第三者の視点があった瞬間(もしくは、それを意識した瞬間)に、
制約やルールといった垣根にあっさりと囚われてしまうのだ。

「その垣根を壊す」と言っても、それは垣根の存在を認めてしまっている訳で、
「垣根を壊す」という行為そのものが、垣根の中から生まれた行為の一つなのだから、
言えば言うほど、第三者の視点に自分が囚われてしまっていることを名言して周っているようなものだ。

となれば、音楽における真の自由とは何か。

心の深淵に触れ、共鳴したものを再現することか、

既存の理論や方法論を熟知し、それから逃げる術を模索することか、

瞬間の即興こそ全てであるとし、それを崇高に扱うことか。

どれも違うような気がする。

何だろう何だろうと考えても、
なかなか答えは出ないもので、

それならばその刹那
生きていることの軌跡を
音を鳴らして示したいのだけれど。。。

やってみるよ。

死ぬ瞬間までやったらすごいよね。

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