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2012年10月 8日 (月)

「斜陽」を読んだ。

「人は嘘を吐くときには必ず真面目な顔をするの。」

こんな太宰治のようなことを、真島昌利の歌の中でジョニーが真面目な顔で言ったとき、いつかは「斜陽」を読んでみたいと思いながら幾月を経て、先日、やっとその時が訪れました。

太宰治というと、「走れメロス」を書いた人であったり、「人間失格」を書いた人であったり、40歳で入水自殺をした人であったりと、それくらいの情報しかなかったのですが、今回初めて作品に触れてみて、その澄まされた感性や、世界観、生き様に身震いするくらい、それこそ初めてTHE BLUE HERTSを聴いた時くらい、いや、それ以上の衝撃を受けました。

「斜陽」のストーリーについて語るべきところは、私からは何もありません。「こんな話だから読んでみて。」とお勧めする類のものではないし、「何かきっかけがあれば触れてみてください。」としか言いようがありませんが、その衝撃たるや尋常なものではありませんでした。

Twitterでも呟きましたが、これを10代の頃に読んでいたら生き方が変わっていたかも知れません。それくらい、今まで触れてきた文章の垣根を越えて、創作の域を超えて、切実に読者に訴えかける「熱」のようなものを感じました。良いとか、悪いとか、正しさとか、主義とかではなく、目覚めたばかりの子供が持つ社会に対する純粋な違和を更に何万回も研ぎ澄ましたような切先にうろたえずはいられませんでした。

私は、西岸良平の「夕焼けの詩」という漫画が好きです。その作品の中で太宰治を読んだ影響でニヒルになっていくことを、「一種のハシカのようなもの」と大人たちに言わせているシーンがあるのですが、私も10代の頃に読んでいたらと思うと、その病にかかっていたかも分かりません。

私自身も創作をする人間ですから、その活動自体に悩むこともあります。その悩みこそ多々ありますが、根源を探れば「なんでこんなことやってんだろ」と、そういうことになります。

今回、「斜陽」を読んで、その答えが少しだけでも見えた気がしました。もちろん、この本自体にその手がかりとなるようなストーリーはありませんが、文字からひしひしと伝わってくる「熱」に、作者の姿勢というものはこうあるべきだというようなことを、思わずにはいられませんでした。

しかし、それはまた、とてもとてもとても生きづらく生きつつも、煌々と命を燃し、身体が乾枯するほどエネルギーを傾けなくてはいけないものなのか、とも思いました。

そこまでの覚悟があるか、私に。

その答えは、はっきり言って「今は無理です。」と言わざるを得ませんが、それでも、そうしなくてはいけない時ってのは、何かしらをやっていれば訪れるものかと思っています。その時は、少しだけでも見えた偉大な創作者の姿を浮かべてみようかなと、そんな風に思いました。

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