2018年3月 3日 (土)

ランニングしてきた

ランニングをしてきた。

さっぱりした。

心の錆が落ちる。淀みがなくなる。そして、落ち着く。
自分が自分でいることを自然とすんなり受け入れられるような、そんな平穏を得られる。

これには、ランニングによってβエンドルフィンという脳内物質が分泌されるかららしいのだけれど、そんなことはどうでもいい。
とにかく何かしらの行為によって、心の平常を保てるということは、救いだ。

下手に他人に励まされたり、向上心を持てと書いてある本を読んだり、粗暴なことをして憂さ晴らししても、心の奥の淀みはなかなか消えてくれない。

運動で得られる平穏は、動物的な物なのだと思う。つまり、自身の存在とか生命とかそういうところに関わってくる平穏だ。
動物としての機能を駆使したことで得られる充足感なのかも知れない。

なぜ動物的なのか。それは運動で得られた平穏が明日には見事に無くなっているからだ。もしかしたら数時間後かも知れない。

いくら満腹になってもいずれ腹が減るように、この平穏はいずれなくなってしまう。

さて、私は小学校、中学校ともに運動部に所属しており、毎日のように部活動に励んでいたが、今ここで書いたような平穏を実感したことはなかった。

高校生になって運動部からは離れたものの自転車通学であったし、体育の授業も受けていたのでほぼ毎日何かしらの運動的な活動はしていた。
しかし、やはり平穏は感じられなかったし、「今日も自転車で通学したから気持ちがさっぱりしたー!」なんて事を言った例がない。

もっと言えば、社会人になってからも自転車通勤の頃があったが同様である。


何故なのか。


思うに、それらの運動活動が単に社会的なタスクをこなす為の行いであったからではないか。

部活動、体育の授業、通学、通勤それら全ては、社会的な目的を達成する為の運動行為であり、意識の背景には常に仕方ないという思いがあった。

「こなさなくてはならないことをするだけ」

つまり、私にとっては、それら全ては、他動的な運動活動だったのだ。
他動的な運動活動とはつまり、奴隷の労働に極めて近い行為とも言える。

ここまで読んで、あまり共感を感じない方はおそらく、それらの運動活動において能動的な意義を持ち取り組んで来られた方と推測する。

例えば、それらの運動活動において「理想のプレイに少しでも近づく!」とか「俺は体育では絶対に良い成績を取る!」とか「電車ではなくあえて自転車で行く!」とかいったような自分なりの意義を私が少しでも持っていれば、先に書いたような平穏を得られたのかも知れない。

しかし、それが全くなかったのだ。いや、全くでは語弊があるかも知れない。考えはしていたけれど、心の芯からそのような事を思えなかった。

今にしてみれば、ちょっともったいないことをしたなと思う。

今、自分がしている運動は完全に自身のためのものである。

それもほぼ一人で行っているので、誰かに強制されることもなく、無理に能力を上げる必要もなく、人間関係に気を使うこともない。

更に、健康に気を使ってとか、体力をつけて日々のパフォーマンスを上げてとか、そういう目的もない。

気が向いたときに出掛ける散歩と同じだ。ただ、走ってるだけ。

実はこれってすごく贅沢なんじゃないかと思ってる。
だって、時間と体力に余裕がなければ絶対にできないことだから。

スクール(学校)の語源はギリシア語のスコレー(余暇)にあると聞いたことがある。
古代ギリシア人にとって、学ぶということはきっと娯楽や余興だったんだ。
とても役に立ちそうもない議論を延々と重ねていくうちにヨーロッパ思想の礎が出来上がっていったのかな、なんて思い馳せるとニヤリとしてしまう。

もちろんそんな大層なことと比べる訳ではないけれど、何のしがらみもなく、目的もなく、狙いもなく、純粋にやりたいことができる余暇って、いつの時代も素晴らしいなぁと思う。

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2018年1月10日 (水)

何事も消化の仕方が大事

とくだん健康志向という訳ではないけれど、それでも最近は少しばかり健康を気にかけるようになった。

長生きしたいとか、美しい体を手に入れるとかという動機ではなく、ただただ日々のパフォーマンスの低下を防ぎたいと思ったからだ。

では、日々のパフォーマンスが下がった状態とは、どういうものかというと、

・二日酔いで精神的に超ネガティブ思考に陥る。

・二日酔いで身体がダルく積極的な運動ができない。

・内蔵の疲労により慢性的な疲れが付きまといハツラツとしない。

・頭がさっぱりせず、やる気が起きない。集中できない。記憶できない。

・食べ過ぎたあととても眠くなる。

・胃もたれがひどい。

・眠っても疲れが取れず、まだ眠い。

とまあ、こんなところで。

「お酒やめたら?」
「体に良い物食べたら?」

という意見があって然るべきだし、全くもってその通りなのだけれど、酒食が何よりの娯楽だと思っているので、それはちょっと嫌なのだ。

好きな物を食って、好きな物を飲んで、それでいて不調を来さずにいたい。

わがままの極みかも知れない。
でも、自分はそうしたい。

この世界の経典が健康だとしたら、きっと表の世界では生きていけないだろう。

反逆者とか悪魔とかサノバビッチとかそういう蔑称を付けられるだろう。

親や子孫も世間様から疎まれてしまうかも知れない。

この世の経典が健康でなくて本当に良かった。

では、そんな天真爛漫に食って飲んで、更には日々のパフォーマンスを下げないためにはどうするのか、

平たく結論から言うと、「日々の酒食に耐えうる体をつくる」ということだ。

これが今回自分の定義する「健康」だ。

具体的な目標はこれ。

『強い内蔵を作ること』

最近、本当に実感することが増えた。「人間って内蔵次第だな」と。

日々の不調や精神的な落ち込みがあるときって、内蔵が良くない。

胃もたれ、ムカつき、腹痛、下痢、大抵何かしらなの内蔵不調がある。

「削減」によりこれら不調を緩和することは確かに可能かも知れないけれど、それでは根本的に解決したとは言えないのではないか。

内臓の調子が悪いから摂取量を減らしますって、そんな守りの姿勢はいらない。

攻めたいのだ。

来るものみんなまとめて消化してやるぜ!って言える男になりたい。


◎ここまで書いておいてなんだけど、お酒は少し控え目にしようと思っています。

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2017年6月 5日 (月)

第三者視点にあたふたする

ツイキャスで弾き語りを放送してみた。

普段使ってないアカウントでの試験放送であったので、
観てくれた人はゼロであったけど(やっぱり少し悲しい)、

「どこかの誰かと繋がっているかも」というのは、
部屋でひとりで歌っているときとは意識的にかなり違う。

緊張感というとまた違うけど、
予断できないし、

何で自分はこの歌を歌っているのか?
という自問にアンサーを出し続けなくてはならない。

面白いな、と思った。

音楽は自由なのだけど、他者の視点があると自由の意味合いが変わってくる。

相手がいて初めて言葉が会話になるように、
話し手は自らの言葉が相手に与えるであろう影響を無視できない。

自由には自由なのだけど、その自由は
「相手がいる事によって生じる制約をどこに置くか」という自由に変わってくる。

第三者の視点があった瞬間(もしくは、それを意識した瞬間)に、
制約やルールといった垣根にあっさりと囚われてしまうのだ。

「その垣根を壊す」と言っても、それは垣根の存在を認めてしまっている訳で、
「垣根を壊す」という行為そのものが、垣根の中から生まれた行為の一つなのだから、
言えば言うほど、第三者の視点に自分が囚われてしまっていることを名言して周っているようなものだ。

となれば、音楽における真の自由とは何か。

心の深淵に触れ、共鳴したものを再現することか、

既存の理論や方法論を熟知し、それから逃げる術を模索することか、

瞬間の即興こそ全てであるとし、それを崇高に扱うことか。

どれも違うような気がする。

何だろう何だろうと考えても、
なかなか答えは出ないもので、

それならばその刹那
生きていることの軌跡を
音を鳴らして示したいのだけれど。。。

やってみるよ。

死ぬ瞬間までやったらすごいよね。

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2017年5月13日 (土)

飲酒時における考え事について①

毎日だらだらとお酒を飲んでいる。

お酒を飲んでいるときはなるべく楽しい気持ちになりたいので、
楽しいことを考えるようにしている。

しかしながら、この考え事というのが、なかなか選定が難しく、うまく酒に浸れないこともしばしばである。

この記事では、普段どのような事を考えながら飲酒しているのかということをポイントに、駄文をつらねたいと思う。

【宇宙について】

NASAが発表していないだけで、未知や超常との出会いはすぐそこなのかも知れない。
はたまた突発的な異常に巻き込まれ、歴史の終止符はもう次の瞬間かも知れない。

なんて考えながら酒を飲む。

しかし、最初のうちはわくわくするけど、自分が宇宙という未知の空間で生きているんだなと、次第に不安になってくる。

いくら地に足つけたって、実はその地が宙に浮かんでるんだぜ?
怖いよね。

【命について】

まずは、この星で発生した生命という現象の果てに自分がいるんだなと考え、感慨深く酒を飲む。

生命が発生して以来、連綿と繋がれてきたバトンを今自分が手にしている。更にここは歴史の最先端と来たもんだ。

この上ない特別感に、酒も美味い。

しかし、命について考えていると、時の流れとともに人間は自然から離れ、ひとりぼっちになってしまったんだなとか思って、虚しくなる。

養豚所の豚や、養蚕所の蚕ももしかしたら、こんな虚しさを抱えて生きているのかも知れない。

「自然へと帰れない」

豚が牙を失くしたように、蚕が羽を失くしたように、人間もまた何か大切なものを無くしてしまったのではないか。

先人達に聞こえていたであろう自然の声はもう聞こえない。

人間は悲しいくらいにひとりぼっちだ。

このアルコールが工業品でなくて本当によかったよと、夜な夜な酵母菌に語りかけてみる。

酵母菌からの返事は無い。

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2016年1月21日 (木)

楽器の練習をしている

今まで、あまり楽器の練習をしてこなかった。


公開している楽曲を聴いていただけば分かるとおり、楽器の演奏は得意ではない。というか苦手だ。

昔、アマチュアバンドで活動していた頃は、ステージに立つ手前、練習をしていたけど、バンドをやめて個人的に音源を発表するだけになった頃から、もう殆ど練習をしなくなった。

もちろん、楽曲の録音をするときは一時的にフレージングを自分なりに追い込みはするけど、それ自体が演奏技術の土台になり得るかというと、体感としてはなっていないので、練習とはいえないし、全く楽器が嫌いな訳ではないので、気ままに楽器を鳴らすことはあっても、当然にこれも練習とはいえない。

そもそも、何故こんなにのらりくらりとしたかと言えば、楽器ができない劣等感もあったし、思春期を過ぎたころから「結局、才能のないやつは何をやっても無駄じゃないか」と考えるようになったことに由来する。

足の遅い人間が短距離選手を、頭の良くない人間が学者を、不器用な人間が技術者を目指すものか。競馬の世界だってサラブレットだなんだで、血筋で先天的な才能を持つものと持たぬものの力関係が如実じゃないか。
そもそも、進化というのは淘汰の繰り返しなわけで、そういった世界に生まれた以上、才能に抗うのは無駄だ。滑稽だ。徒労だ。


こんな風に考えていた。


もともと、楽器の演奏技術に対する劣等感はかなり強烈なものであり、できないことに対する自己嫌悪から、才能だなんだと騒ぎ立てた挙句に、いつしか匙を投げてしまったわけだ。

そんなこんなで、のらりくらりとやり過ごしているうちに、いつの間にか「諦めた人間」になっていた。
諦めた人間の日々は、色褪せてて、ふにゃふにゃしてて、概して面白いものではない。


そう、全然面白くないのだ。生きているという感じがしない。命があるだけだ。


それに気付いてしまった。

才能がどうのではなく、今の自分を超えて行きたいという命の欲求を、もしかしたら人間は進化の過程で手に入れたのかも知れない。


諦めの境地でそういう声が聞こえた気がした。
いや、最初から諦めていなかったのかも?
そもそも、人間は諦めることが本当にできるのか?


別に楽器でなくても、やりたい何かに近づくために頑張れればそれでよかった。


ただ、靄のように掴みどころのない決意だけども、とりあえず、楽器の練習しようと思う。


誰かの才能にではなく、今の自分に抗うのだ。

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